2009年1月30日金曜日

休薬期間を有効に。

今日は霧雨。だんだん春めいてきます。もともと寒いのが嫌いで、冬は人間も冬眠できたらいいのに、と常々思っていたし、やっと楽しい季節がやってくる。抗ガン剤も2クール終了し、なんとか生き延びているので、今年の梅と桜は、見られるでしょう。

しかし、この終わりのない抗ガン剤生活に、いつまで持ちこたえられるんでしょうねぇ。まだ2クールだけど、白血球や血小板の減少以外にも副作用は出てきていて、手が黒ずんできた(色素沈着)&脱毛が増えてきたのが気になる。禿げるってほどじゃないんだけど、薄くなってる、ってかんじ。ジェムザールは、もともと副作用の少ない抗ガン剤だけれど、やっぱり毒を体に入れているわけだから、あちこち不具合は出てくる。モルヒネのせいで眠気も強いし、1日のうち起きていられるのは、以前の3分の2ぐらい。健康な時ってどういう生活してたんだっけ?と思うくらい、すっかり病人生活になってしまった。食事は、以前の半分も食べられない。特に出し汁の臭いを受け付けなくなってしまい、味噌汁や肉じゃがなど、臭いをかいだだけで吐きそうになる。和食の味付けには、ほとんど醤油や出し汁が使われているので玄米菜食どころか、洋食派になってしまった。今朝はクラッカーとチーズとカフェオレとリンゴ。あとはビタミン剤。

ところで、今のところ、疾病休暇扱いで会社を休めているけれど、休職期間のリミットは1年半。この期間を過ぎたら、もはや戻れる仕事も収入もなく、闘病生活を続けなければならない。そうなれば細々とつながっていた社会との糸も切れて、心の拠り所みたいなものもなくなってしまうだろう。実家に身を寄せているとはいえ、生活費や治療費だって厳しい。今更、看病と生活のためにダンナを探すわけにもいかず、どうしたらいいのか、まったくわからない。

2009年1月29日木曜日

くじける・・・。

痛み止めの薬が切れそうだったので、地元の赤心堂の外来へ行った。入院したときと同じ先生だ。簡単な問診の後、処方箋を出してくれた。先生は「その後、どうですか?」と言いながら、お腹も触診してくれて「腹水は、大丈夫そうですね」と一言。一安心しつつ、あれっ! と気づいた。がんセンターの先生が、触診してくれたことは、入院したとき以来1回もない。これってどうなの。触診なんかしたって時間の無駄だから省かれてるんでしょうか。手抜きじゃないの。今度行ったとき、触診しなくていいのか聞いてみよう。でも、たぶんあの先生は「しなくても大丈夫です」と言うでしょうね・・・。このごろ、がんセンターの先生との問診は、バトルの様相を呈してきている。

再発や転移のある患者に、病院は親身になってくれない。がんセンターのような高度医療を手がける医師は、治る患者には興味を持つけれど、治癒の可能性が低い患者には冷たい。やはり噂どおり、最後には患者を放り出す病院、なのか?病院の体制から言って、個々の医者には、この辺の対応で限界なのか?患者一人一人の痛みを受け止め、心と向かい合ってくれる技術を持つ医者は、どこに行けばいるんだろう。進行ガンを抱えながら、どうやってガンと戦い、折り合いをつけて生きていけばいいのか、その手助けをして欲しいだけなのに。こういう病状で、医師から冷たい言動を受けると、病気の悪化に拍車をかけられる気がする。ますます心がくじけてしまいそうになる。それじゃあ、ホスピスへ行けば、と言われるかもしれなiいけれど、行っても待っているのは看護士さんの手とモルヒネだけ、らしい。

週刊誌では、国立がんセンターが独立行政法人になることで、約550億の借金を背負わされ云々、という記事をみかける。日本の癌治療が満足な状況になるには、あとどれくらいかかるんだろう。政府は、2兆円を小額づつ国民にばらまくくらいなら、癌治療の研究費に使って欲しい。そっちのほうが、よっぽど国民の支持を得られると思うんだけど。なんだか日本の医療に対する文句ばかりの文章になってしまった。怒っているとガンが悪化するそうだし、このへんで辞めておこう。

2009年1月28日水曜日

気晴らし

今週は、抗ガン剤がお休み。体調は良くなったり悪くなったりしながらも、小康状態は続いているみたい。こんなときこそ気晴らしをしたいと、ぽちぽちと約束や計画を入れている。そして、久しぶりにデパートへ行って、雑貨や洋服を見て衝動買い。痩せたので、普通の9号が着れるのは、なんといっても嬉しい!オシャレしても出かけるところなど殆どないのだけれど、ついつい買ってしまった。友人にドライブにも連れて行ってもらい「まだまだ自分は生きてるぞ」という気分も味わう。気晴らしひとつで、こんなに気分が変わるものとは、病気になって初めて気がついた次第です。

ところで週刊誌で、女子医大の人工心臓手術の裁判記事を読んで、あの病院なら起こりそうな話だと、感じた。病院が混雑しすぎ、というのが一番の理由だろうけど、一人一人の患者より、病院や組織の都合が優先されているうえ、各部署の横の連携が取れていない。そのため、治療の流れにエアポケットのようなものが生じ、治療に必要なスピードが確保されていないし、事務処理ミスも起こりやすい。実際、私が入院しているときも、その恐怖はすごく感じた。
検査のある日に朝食を出されたことがあるし、同室の大腸ガンの患者さんは、やるはずだった検査が混雑のためできなかったのに、1日に下剤を2回も飲まされたうえ放置され、検査が延期になった連絡もこなかった。温厚な方だったけど、流石に激怒していた。また、隣のベッドの方は、担当医から明日退院、と言われていたのに、翌日の朝の回診で主治医が回ってきたときに「誰が退院を許可したんだ! まだ肺の検査が済んでいないじゃないか」と言われ、退院が1週間延期になっていた。しかも、6人部屋の真ん中で、朝から主治医が若い医師を不機嫌に怒鳴りつけている光景は、同室の患者全員の不安を煽った。連携ミスもはなはだしい。そのときには、医療ミスってこうやって起きるんだなぁ、と思ってぞっとした。
そして、手術になれば病院が訴えられないように、患者にリスクを押し付ける一方のインフォームド・コンセント。病院のリスク管理上、仕方ないんだろうけど、もうちょっと患者の立場にたった配慮を見せてくれたっていいじゃないか、と思った。すべての病院がこうじゃないかもしれないけれど、病院の内情なんて、一般人は殆ど知らないわけだし、いざ病気になったときに、うっかりダメ病院に入らないようにするのは、どうしたらいいのだろう。咽喉から手がでるほど、情報が欲しいと思う。

2009年1月25日日曜日

体調

心なしか、体調がいい。こんなときこそ動かなくては、と思い立って、昨日近所の温泉施設へ行った。寒い日だったせいか、ひどく混んでいたけど、岩盤浴もできて満足。ガサガサしていた手も、ツルツルになった。いわゆる免疫力も高まるんじゃないかと期待する。プチ湯治だと思って、3日に1回ぐらいは行ってみようか・・・。
ガンになってから、さまざまな免疫療法、代替治療について調べたけれど、続いているものは実はない。結局どれも気休めでしかないように感じた。ペプチドワクチンも樹状細胞も、女子医大とがんセンターの先生に「実は効かない。期待はずれ。」と否定され、安保理論継承先生の針治療(八王子クリニック)に行けば痛みが増し、プロポリスをがぶ飲みしても、漢方薬(銀座東京クリニック)を飲んでもガンは転移した。ビタミン点滴治療を検討してみたけど、抗がん剤の点滴に、更にプラスして点滴を受ける気力が、もはやない。私は血管が細いらしく、針を刺す場所が限られていて、痣みたいになっている上に、点滴中に血管痛がおこる。本当に注射は、もう1本でも減らしたいのだ。それでも果たして、温泉と岩盤浴が、温熱療法代わりになるだろうか。「イワシの頭も信心から」。信じてみたい。

抗ガン剤が効いている期間は、限られている。やがて、抗ガン剤に対してもガンが免疫を作ってしまい、ガンの増殖を抑えられなくなる。いつか手詰まりになってしまう日を恐れつつ、結局、今できることは、体をいたわりながら、毎日を丁寧に暮らすことだけなんだろうか。月末から「マンマ・ミーア」「20世紀少年 第2章」も公開される。映画も見にいきたい。「20世紀少年 第3章」は見れるだろうか。
病気のことだけを考えないように、しなくては。今日、県内に住む叔父が、お見舞いに来てくれた。叔父も昨年、大腸ガンを患い手術している。幸い再発もなく予後は良好だが、一時は死を意識した、とのこと。口数は少ない人だけれど、ただ私を励ますためだけに、高齢の叔父が、一人で家まで来てくれた。ありがたいと思う。

毎日、本を読みDVDを見る生活。すぐ読むものがなくなってしまうので、今日もアマゾンで5冊注文した。今は「空海」に関する本が読みたい、と思っているところ。物を整理したいと思っているのに、本は増えるばかり。
お見舞いにいただいた花は元気で、気がつけば今も部屋にはいい香りが漂っています。部屋が華やかになり、花には随分気持ちを慰めてもらっている。

2009年1月24日土曜日

なんか

もしかして、今、鬱なのかもしれない。ガン患者は、死への否定と孤独から、怒り→取引→鬱→受け入れ、という順序を踏むそうなので。

部屋の模様替えは、なかなか進展せず。ベッドサイドテーブルだけ、なんとか決まったので、オーダーした。浜本工芸、というところの商品。本当は机の袖机なんだけど、収納が便利で、使い勝手が良さそうなので、これにしちゃいました。浜本工芸の学習机は、秋篠宮家でも使っていると宣伝されていて、安心のブランドらしい。31日に届く予定。その外の椅子やラグなどは、いろいろと目移りしてしまって、なかなか決められない。

2009年1月23日金曜日

闘病記

夕べ、いつもと違う種類の痛みを感じて目が覚めた。腫瘍の範囲が広がっているのだろうか・・・。憂鬱だ。これが何を物語っているのだろう・・・。膵臓がんで、手術しなかった場合、寿命は10~12ヶ月が平均値と言われている。私の場合、もうあと半年もない。例え、この壁を越えられても、2年ぐらいが限界らしい。厳しい現実だ。いろいろ覚悟をしなくては、と思う一方で、絶対にそれを受け入れられない自分がいる。何とか乗り越えたい。病人になると、昼間と夜で、かなり心理状態が変わるようで、最近、明け方に悪夢を見るようになってしまった。これは、どう考えても気力の低下を招くし良くない。元気を出さなくては。あまり愚痴は書きたくないと思っていたけれど、やっぱり病人です。これからも、弱音をはきつつ気力を高める、という繰り返しを続けるでしょう。そういう患者の気持ちをどうかご理解ください。

他の人の闘病記を読むことから、実はしばらく遠ざかっていた。理由は読むと落ち込むから。自分の今後の経過をそこに見るのは恐怖以外の何ものでもないし。とはいえ、ネット時代だからこそ得られる情報であり、落ち込む一方で、同じ病気で戦った人の記録ほど、私を勇気付けてくれるものはないこともわかっている。そこに書いてあることや、敢えて書いていないことから、その方が何を考え、何を耐えて、生き抜いたかを想像するとせつなくなる。

ところでブログを読んでいると、どうも私より日常生活のレベルが高くギリギリまで社会生活を続けている人が多い。羨ましい。同じ病気でも、ガンの症状は人によって大きく違うらしく、私の場合、痛みのコントロールがうまくできず、動き回ることが困難。1月は、ほとんど引きこもりの状態で、川越市内をこわごわ動くのが精一杯だった。東京へ行ったのは、通院の2回だけ。社会との繋がりのないこの状態は精神的に辛く、このままでは、気力のほうが先に参ってしまいそうだ。何か手を打たなくてはいけない。

先生は、私の病状をあまり細かく説明してくれない。言い出せば悪い情報ばかりだから、知っていても逆効果だろう、と言う。確かに聞きたくないので、私も突っ込んで聞いていない。ただ推察すれば、次のようなかんじか。
・ガンが膵臓だけでなく、リンパ節、腹腔、肺に転移していることによる、腹水の増加・健康な臓器を圧迫す るための食欲不振、肝臓や腎臓の機能低下。
・抗ガン剤による、骨髄抑制・白血球低下・脱毛。

現在13時。予報どおり、春のような暖かい日差し。今日が金曜日だったことに、先ほど気づく。残りの人生を充実させる、などどいう難しいことは、考えてもわからないことだけがわかった(笑)。

2009年1月22日木曜日

リンク

雨です。これから春に向かっていくのかなぁ。
“すい臓がん.com”というサイトを運営している方からコメントがあり、そちらのサイトで、私の闘病記のリンクを貼ってもらえることになりました。アドレスはこちらです。

http://www.suizo-gan.com/blog/

覗いてみると、他の患者さんの闘病記も多数あり。インテリの方が多いようで、皆さん私の何倍も情報を集めてさまざまな治療法にチャレンジしている様子。中には、新しい治療手段を求めて、どんどん転院しているツワモノもいた。私なんて、まだまだ努力が足りなかった。読んでいたら、膵臓ガンの場合、抗ガン剤による腫瘍の抑制は、通常半年強ぐらいで手詰まりになって効果がでなくなるらしい・・・。大ショック! 今から、次の手を捜さねば。ホスピスを探している場合ではなく、治療法を探そう。

2009年1月21日水曜日

病院の日

昨日は、愚痴めいたことを書いてしまって、ちょっと反省。“すべてから遠のいてしまった”なんて、自分の意識の持ち方次第だった。おまけに、励ましてくれる友人に対して失礼でさえあった。御免なさい。

先週、赤心堂に入院していたので、2週間ぶりに、がんセンターへ行く。一人で電車に乗って、病院まで行くことができた。まだ動けるようだ。大人しくしていたら治る病気でもないので、これからは疲れない程度に、行動範囲を広げよう。怖がらずに、動いてみよう。抗ガン剤は、2クール目の3回目。血液検査の結果は、さすがに血小板&白血球とも、基準値以下だが、ひどい自覚症状もないので、投与してもらう。
今回、先生との問診に妹と友人の二人に付き添ってもらうために、病院で待ち合わせをした。ちょっと込み入った質問などしたかったので、援護射撃をお願いするためだ。おかげで先生とも、いつもより突っ込んだ内容のディスカッションができ、大変助かった。しかし、今後また、病状が出たときの対処や、病院とのスタンスに、こちらが完全に納得できるような対応は、求めること自体が、厳しいようだった。外来は常に予約でいっぱいで、ベッドは万床に近く、事務処理も煩雑。突然の入院には対応困難等々。こんな病気にかかったことがないので今まで知らなかったけれど、難病の場合、日本では、大別すると、以下の3つの病院を使い分けなければいけないらしい。ずっと同じ病院で、最初から最後まで見てもらう、のは、患者のわがままってことか・・・。

1:難易度の高い病気に対して積極的な治療を行う、有名病院。
2:治療法が確立している病状や、検査などに、フットワーク軽く対応する中クラスの病院。いわゆる「お近  くのかかりつけ医」。
3:治療不能の病気に対応する緩和ケア。ただし数は少なく個室代は高額で、一般人は現実的に長期入院困難  聖路加に入った筑紫哲也は、やはりお金持ちだった。1ヶ月も個室に入院していたら最低でも150万円以  上、かかっているだろう。

私のような難治ガン患者を、途中から引き受けてくれる病院は少なく、こちらから選択できる余地は殆どなかった。日本という国では、具合が悪ければ、どこの病院でも診てもらえると思っていたのに、現実は門前払い。何のために今まで、健康保険料をはらっていたのだろう! これがガン難民なのか。ガンという病気に対して、いろいろな患者団体が活動しているから、この先、状況は改善されるかもしれないけれど、現在は、これが現実。

ところで、今のような小康状態が保てている、ということは抗ガン剤は、効いてる可能性が高い、と判断していいと思う。治らなくても、せめて今より悪化しないように祈るばかりだ。
抗ガン剤の副作用にも、慣れてきたというかコントロールしやすくなってきたので、今日、病院の帰りに、妹と築地のイタリアンレストランにチャレンジ。こういう店に入るのは、2ヶ月ぶりぐらいだ! ピザやサラダが美味しくて、私にしては量も食べることが出来た。純粋に嬉しい。こういう小さな幸せの積み重ねが、人生なんだなぁ、としみじみ。老人っぽいですね。築地を歩いていて妹と「やっぱり東京は埼玉より暖かいね」と言い合う。ここまで体感温度が違うって、築地までは、やはり小さな旅(笑)。

2009年1月20日火曜日

大寒

午前中、介護保険のケアマネージャーと、今後、自宅で援助を受けられる医療について説明を受ける。また、地域の病院情報などについて質問する。私の希望自体、まだまだ漠然としている部分が多く、また家族の事情や考え方ともズレがある。ということで具体的なことには話が進まず、まずは問題の洗い出し、といったかんじ。高齢の親に、あまり負担はかけられないし。
午後は、埼玉の県立がんセンターのホスピスの下見に行く。綺麗だったが、やはり家から近い、とは言いがたい。でも、埼玉のホスピスは、このがんセンターと上尾○○病院の二箇所しかないのだ。最後をどこでどう迎えたいのか、について、考えておかないと家族に迷惑がかかってしまうため、準備や下見をしているのだが、こういう作業は、やはり苦痛。考えていると、それが現実になってしまいそうで嫌だ、という気持ちもあるし。こういうことってタイミングが難しい。時期なんて誰にもわからないのに、混雑しているため、予約は2ヶ月先までいっぱいだという。

自分のライフスタイルについて。元気なときは、あまり意識していなかったことが、病気によって、問題点や依存していた点、が浮き彫りになってしまった。大学も会社も都内に通い、生活の中心はずっと東京だったのに、現在の私は、川越で親と同居中の独身。友人や知人は、ほとんど東京にいるため、いざ、自分が動けないとなると、会うことも難しい。会社も遠いため、たとえ週3日だけ通う、ということが可能でも通勤のストレスが大きすぎる。一人暮らしだったとしても、こう期間が長引けば、金銭的にも実家に帰らざるをえなかっただろう。とにかく、それまでの自分の生活圏から遠のいてしまった。自分らしさ、とは何だったんだろう。仕事や友人、ショッピングや食事。自分の気に入った生活圏を守ることが私らしさだったとしたら、その基盤は脆弱で、病気ひとつによって、すべてから遠くなってしまった。病気、とはそういうことで、健康でなければ、何も始まらないのだろうけど、このあっけなさは、何だろう。有名な千葉敦子さんの著書「乳がんなんかに負けないぞ」を読み、ニューヨークで独身で、仕事を続けながらガンと戦い、亡くなった彼女が、いかに強靭な精神力の持ち主だったか、よくわかる。病気でも、最後まで自分のライフスタイルを守りぬいた。私みたいな凡人には、とても真似できない。結婚していたり子供がいればいたでまた、違う安心や違う問題があるのだろう。でも、私は、少なくとも病気になる前までの自分の選んだ生き方を後悔はしていない。

とにかく、暗い面だけに目を向けるのは辞めよう。つい、書いてしまいがちだけど・・・。近所の高校の校庭の隅に咲いていた、寒水仙が綺麗だったとか、妹と会話が増えた、とか、いいこともある。暖かくなってくれれば、もう少し活動的にもなれるだろう。

2009年1月19日月曜日

日本の医療って・・・。

TVでもよく、医療の崩壊が問題にされているけれど、本当にそうだと思う。健康なときには他人事だったが、いざ、自分が病気を抱えて患者になってみると、病院に罹ることが、どれだけストレスになるのか、よ~くわかった。
どんなに体調が悪くても、待たされてあたりまえ。待った挙句の問診でも、忙しい医者は患者の声に耳を傾けてくれない場合もあり、こちらの質問に、ウンザリしたような態度を示す医者さえいた。多くの患者から同じ質問を受けてるんだろうけど、こっちは初めてなのだ。この当たり前の部分で、もう気持ちを受け止めてもらえない。患者の気持ちを想像する感性(?)みたいなものを持っていない人は、医者に向いていないと思う。
特にガンみたいな病気に罹って、ナイーブになっている患者としては、医者の表現の仕方ひとつで、治療方法の受けめ方も変わってしまうのに。普通の会話ができない医者が多い。そんなに高度な会話能力を求めているつもりはなく、仕事で普通に交わしている常識の範囲の会話レベルを求めているだけなのに、もう全然低レベル。この人、こんな口のきき方でサラリーマンだったら、仕事にならないだろうな、と感じる医者も結構いた。コミュニケーション能力は、医者にとって本当に大切なスキルだと思うし、訓練して欲しい。

もう治癒できない、という段階になった私みたいな患者は、本当に沢山の問題を抱えている。高額な医療費のこと、仕事のこと、心を支えるシステムのこと、家族とのこと、医療者とのコミュニケーション。国立がんセンターは、何とかそういう問題を解決して、医者同士のチームワークを高め、患者の治療から心のケアから退院後の生活まで、トータルでフォローできるシステムを作ろうとしてるけど、まだまだ未完成。そして、それでさえ、川越からは遥かに遠い・・・。

2009年1月18日日曜日

部屋の模様替え

薄曇りの寒い日。体調は小康状態。
病院食やフルーツやカロリーメイトやおにぎりばっかり食べていたので、流石に飽きてきて、昼食にラーメンの出前を頼んでみた。これが大外れで、マズイ。どっちみち1人前食べられないし、外出が辛いので出前にしたのだけれど、そもそも近所にまともな中華料理屋がなかった。ラーメンは、やはり出向いて食べに行かなければダメなのかも。ほとんど食べられないのに、マズイものを食べてしまった無念さは大きい。

<模様替え>
小康状態の今、病人仕様の過ごしやすい部屋にしようと、改造を考える。単に、今まで家具がなさすぎただけなんだけど、ベッドサイドテーブル、新しいTV台、ラグマット、ローテーブルなど通販カタログを見ながら物色。できるだけ便利にしないと、ますます寝たきりになってしまいそうなので、模様替えは断行したい。

<携帯など>
それにしても、携帯電話やメールは、病人にとって本当に便利でありがたい。これがなかったら、どんなに孤独だったろう。

<お仲間>
中島梓という作家が、やはり膵臓がんに罹り、本を出したりブログを書いたりしている。彼女は、2007年12月に、国立がんセンターで手術でガンを除去するも、2008年4月に肝臓への転移が発見され、その後、抗がん剤治療を続けている。私より半年ぐらい発症が早い。手術したとはいえ、ブログを見る限り、抗ガン剤の副作用や手術の傷跡の痛み以外、ガン自体の痛みはなさそうで、ガンの進行も抑えられている様子。私より、調子が良さそうである。この違いは何だろう。抗がん剤治療をスタートした時期が早かったのか、抗ガン剤がよく効いているのか・・・? 私より先にガンが発見されながら、いまだに頑張っている彼女のブログを見ると、私も負けないように、頑張ろうと思う。

2009年1月17日土曜日

やっと退院

本日、退院。結局1週間入院していた。おかげさまで腹水は抜けたようで、ひと段落。けど、病気が治っているわけではないので、そのうちまた溜まってしまうだろう。先のことを考えると、暗い気持ちになってしまうので、とりあえずは、今の状態を喜びたい。
赤心堂の先生は50歳以上のベテランで、がんセンターの先生より信用できるし、家から近いし(タクシーに乗っても1メーター)、赤心堂のほうがいいのだけれど、病棟が古くて、気持ちがふさぎこむかんじなのが、なんとも辛いところ。入院中、隣の個室の男性(たぶん老人)が、亡くなったようだった。この病院で死ぬ人もいるんだな、と思ったが、私はこの暗い病室で最後を迎えるのだけは避けたい。とはいえ、今後、自分の主治医を誰にするのか、覚悟を決めなくてはいけない。がんセンターが、体調の変化に対応してフォローしてくれないのなら、もうがんセンターをあてにできないし。病院や医師のことって、本当によくわからない。すべてが初めてのことで手探りで、情報もなく、いい病院やいい医師に当たるのは、賭けに近いものがある。

<介護保険>
今までは、なんとか自宅療養で頑張ってきたが、この先、自分の気持ちの頑張りや家族のフォローだけでは、乗り切れない局面も増えていくだろう。どんな体調なら、入院なのか?また、そのまま退院できずに死ぬのかも、とは、どういうタイミングで訪れるのだろう? この先素人判断だけではどうしたらいいのかわからないので、介護保険を受けることにして、赤心堂の相談員の人から、ケアマネージャーを紹介してもらった。これで、たとえば自分が動けないときに、看護士や医師の往診を受けたり、パラマウントベッドやポータブルトイレなどのレンタルができる。自分が、こんな年齢で介護保険のお世話になるとは思ってもいなかったが。契約は、まだこれからです。


<体調>
それにしても、1週間の入院を経て、腹水以外、体調は悪化しているようだ。食欲がほとんどなく、食べられない。1日600kcalぐらい取るのが、やっとだ。昨年のガン告知前と比べて、体重も10kg減。ダイエットしたかったころが嘘のようで、もはや、これ以上痩せないようにするにはどうしたらいいのか、必死だ。
手や足は、以前の半分くらいに細くなったけど、筋肉が落ちただけなので、ぷよぷよ。膵臓の腫瘍の痛みだけでなく、リンパ節の腫れも痛みだし、さらにこの腫れが他の臓器を圧迫して苦しい。肺転移が広がれば、呼吸も苦しくなるらしい。このブログにこんなことまで書くのは、どうかと思ったが、もはや書くことでしか、自分の正気を保っていくのが難しい気がしている。自分の死のシナリオが着々と進行しているのを感じるのは、恐怖以外の何でもない。この先、体調が更に悪化しても正常な精神状態を保っていられるだろうか。今、こうして、おだやかな日が差す自分の部屋で、PCに向かっていられることがつくづく幸せだと感じる。


<お礼など>
ところで会社の友人に、置きっぱなしにしていたDVDや年賀状を自宅に郵送してもらった。Nさん、ありがとう。箱を開けて自分がプロデューサーとして関わった作品のDVDや、年賀状を見ると、元気に働いていたころが懐かしく、そしてまた、この人たちと仕事がしたいなぁ、としみじみ思った。なんとか、元通りに直る方法がないものだろうか・・・。
それから、川越までお見舞いにきてくださった方々、励ましのメールをいただいた方々。本当にありがとうございました。おかげさまで自宅にいるよりも、友人達に会うことができて、元気を補充できました。
最後まで、希望を失わずに頑張りたい、と思っています。

2009年1月10日土曜日

緊急入院

あまりの辛さに、本日午前中、川越の赤心堂病院を受診したところ、即入院が決定。血液中の水分が腹水となって溜まっている分、血液中の水分が不足して脱水症状を起こしているらしい。そうだったのか。この辛さとだるさは脱水症状のせいだったのか。薬と点滴でしばらく様子をみて、それでも腹水が抜けないようだったら、針を刺して抜くらしい。入院は、長くても1週間ぐらいの予定。できれば3~4日で退院したいところだが。それにしても、ついに赤心堂に入院になってしまった。

がんセンターの主治医にも、昨日夜、電話して窮状を訴えたのだが「まずは、近所の赤心堂に行ってみてくれ」とのこと。「がんセンターに入院しなさい」とは言ってもらえなかった。別に意地悪してるのではなく、家が遠いこと、がんセンターは病室が混んでいて、すぐに入院できない、など理由は想像がつくのだが、やはり大病院は冷たいし融通が利かないんだなぁ、と実感。
ということで、これから準備して入院です。とほほ。

2009年1月9日金曜日

微妙に悪化中

7日のブログでは、「なんとか会社に復帰を」などと書いていたんだけど、やはり甘い見通しだった。ガンが腹膜に播種しているため、腹水が増えてきており、急速に日常生活が困難になってきた。腹部の膨張感のせいで起き上がって歩くのも辛いし、胃が圧迫されて食欲がなく、肺も圧迫されて呼吸しづらい。もう利尿剤では、排出されなくなっている気がする。トイレや歯磨きですら「ヨシっ」と思い切らなければ、行けない状態だ。腹水だけで、すぐ死ぬ、ということはなさそうなんだけど、QOLが下がっていることは明らかで、どうしたらいいのか途方にくれてしまう。とにかく不快感が強く、体が拷問道具になっってしまったようだ。体力が落ちてきて、消耗が激しい。先日、ふと鏡を見たら、眉間に皺を発見。今まで、目尻や口元の皺には気づいていたけど、眉間に皺は無かったような・・・。苦痛にゆがんだ表情が増えたせいかと思うと、ぞっとする。

痛みのほうは、モルヒネで何とか抑えている。飲む薬でなく、体に貼るシールに変更になった。ドラマで中井貴一が使用してたヤツだ。シールは3日間有効なので、毎日薬を飲む時間を気にする必要はなくなった。
とにかく、こうしている間にも病気はずんずん進行している。いったいどうすればいいのか。腹水腹を抱えて路頭に迷っている。すでに肺とリンパ節にもガンが転移している、と言われているし、今後、どんな症状が出てくるのだろうか。抗ガン剤は、どうも効いていない気がしてならない。容態の急変もあり得る、と覚悟したほうがいいかもしれない・・・。

ところで、書いている最中に、隣のマンションの火災警報器が鳴り出し、消防車が到着。先日も、このマンションの火災警報器が誤作動していたので、また間違いだと思うが、煩いし迷惑。それに今日は、雨だ。

2009年1月7日水曜日

今年、初上京。

年が明けてから、1日おきに出かけたり、家に引き篭ったりと、交互で毎日を過ごしている。私の2階の部屋の窓からは、家の庭と隣の家の裏側と空しか見えないのだけれど、ここ最近、その空の様子が、なんとなく春めいて見えることがある。季節も変わっていくし、健康な人たちは、仕事も始まったんだなぁ、と思うと、取り残されているようで寂しい。このままでは、職業がガン患者になってしまいそうだ。体調は低め安定。この先、体調が良くなる、という見込みは薄いけど、家で、ぶらぶらしていては、ますます病人モードになってしまうし、暇でしょうがない。無為な毎日を送っているようで、辛いし。幸い、薬で傷みをコントロールすることには慣れてきたし、週3日でも、働けるうちは働かせてもらえないか、会社に聞いていてみようか思案中。

ところで先日、妹に箱根まで日帰りドライブに連れていってもらった。圏央道が開通したおかげで、途中休憩を取りながらも、家から2時間強で到着。近さに、驚愕! 箱根は川越からも楽勝で日帰り圏内だった。しかし富士山が見える露天風呂があるホテルで入浴、が目的だったのに、到着したころに、ちょうど曇ってしまい、富士山は見えず。残念だったけど、お正月に箱根という非常に一般的なことを初めてしてみて、なんとなく満足。帰路、腹痛が起こるが、オキノームという緊急用痛み止めを飲んで、なんとか堪える。

そして、本日は、がんセンターへ。電車に乗ったのも久しぶり。通勤ラッシュを外せば、座れるので多少楽だ。血液検査の結果、白血球も血小板も通常値まで戻っていたので、抗ガン剤投与を行う。ただし、体内の炎症度を示すCRPは0.7。健常値は、0.1以下なので6倍だ。自分の体が可哀想にになる・・・。
今日はベッドが空いていなかったので、リクライニングチェアで投与。ベッドのほうが人気が高いみたいだが、こちらのほうが気楽な気分で受けられるので、私は、チェアのほうがいいかもしれない。先生は、いつものとおり。無駄口は一切ない。必要なことを、淡々としゃべるかんじ。医師に精神的フォローを求めるのは、間違ってるとわかっているけど、雑談くらいは聞いて欲しい気がする。そして、病院で医師にかかっているのに「どうしたら治るんですか?」と聞けないのは結構辛い。聞いたところで、それはだだをこねるようなものになってしまう。腹水などの対処療法を聞いても、根本的な解決方法がないので、答えは「利尿剤と痛み止めで様子をみましょう」のみ。腹水を抜いても、ガンであるかぎり、またすぐ溜まってしまうので、キリがないそうだ。この先、悪化していったらどうなるのかは考えたくもないし、怖くて聞けない。先生は、今後の展開の予測はついているのだろうけど、何も言わない。先行きの暗いことを患者に言わないのがセオリーなんだろう。

死の覚悟なんて、やはり自分には出来ていない。多少でも出来てるつもりだったのは、悟りじゃなく気取りだったと思う。モルヒネが効いて苦痛のない時間に、死ということを思いだすと、健康な人と同じように嫌な気持ちになる。人間なんて現金なものだ。

2009年1月2日金曜日

明けましておめでとうございます

2009年もスタートしました。昨年は、各方面にご心配ご迷惑をおかけし申し訳ありません。今年も絶好調というわけにはいきませんが、覚悟はしつつも希望を失わず、頑張っていきたいです。天気も、元旦・本日と風が少々強いものの快晴。体調のほうも良いようで、痛みも少なく、幸先のいい出だし。

元旦は川越の喜多院に初詣をし、「當病平癒」の護摩を作る。「不治の病」と宣告されていても、さすがに元旦くらいは奇跡を願ってしまうのが、人情というものでしょう。神様、なんとか2010年も迎えさせてください。宜しくお願いします。
去年はガンと言われてから、病院や治療法を探したり悩んだり入院したりで、あっという間に3ヶ月が過ぎてしまったけれど、今年は、小さな目標をたてつつ、地道にやっていきたいと思う。友人と会ったり食事をしたり、美しい景色を見たり、すべてのことを一期一会と思って、大切に過ごしていければ、と。
また、自分がなぜガンになったのか、何を無理していたのか、そんなことを見つめなおすキッカケにしたく、ポチポチと自叙伝みたいなものを書きはじめました。書いてみることで、混乱していた自分の気持ちを整理したり、自分が変わっていけるチャンスを掴めればと思う。こんなところが、私の今年の抱負でしょうかねぇ。

今年も宜しくお願いいたします。